2012年4月15日日曜日

父の死



先日、弟の克己から電話があり、父が大塚病院に運び込まれ、危篤状態とのこと。

翌日、取り急ぎ、病院に行った。

すでに病院に来ていた弟や妹に代わってボクら夫婦で看ることにしたのだが、この日は、父の様態は小康状態であまり変化がないということで、この間に近くの銀行に行ったり、実家に戻ったりした。

その夜は「パークイン柏原」に泊って、早朝、病院に行った。

大阪に近い高速道路沿いは、満開の桜だったが、病院を含めて丹波ではまだつぼみだった。



病院自体は、新しく開放的で明るく、ボクらはコンビニで買った食事をしながらナースセンターで父の様態を監視している看護婦の人を眺めることができた。



この日は父の様態が少し安定しているとのことで、溜った仕事を片づけるため、一旦、高速を飛ばして田辺へ帰って、Big-Uの事務所で仕事をした。

その夜、父が息を引き取ったという連絡が病院からあったので、再度、丹波に舞い戻った。




今夜は、病院の近くの「柏原ファーストホテル」に泊まり、実家に8時ころ着いた。

葬儀屋は黒井の「ゆら」に委託することとして、父を病院から実家に運び、衣装を調えてくれた。


納棺が終わると、「ゆら」の葬儀場で葬儀を行ったが、葬儀場の近くの桜も満開だった。





葬儀は、禅宗の正式な様式に則って少林寺の和尚さんを中心に執り行ってもらった。

最前列で聴くリアルなチンドンシャンは、すごい迫力だった。




ボクは喪主として、出席してもらった皆さんにご挨拶をした。「母が生前父の見舞いに行った時「田んぼで待っているから早く良くなってね・」と言っていたが、父が自宅に帰ってきたときは母は先に天国に行っていた。親戚から生花をたくさん供えていただいたが、母は天国からそこいら中に桜の花をプレゼントしてくれた。」などとお話しした後、霊柩車に位牌を抱いて乗り込み、父とこの世で最期の花見をした。



火葬場で火葬をしている間、葬儀場で待機していたが、近くの見事な桜を妻と見に行った。



火葬場に戻り、遺骨を受け取って自宅へ帰った。



夕方、自宅で初七日を執り行ってもらい、少林寺にお布施などを持ってお礼参りに伺った。

少林寺の近くでも桜が満開で、父の死は満開の桜のイメージで彩られた。

2011年5月4日水曜日

亡き母の一周忌

母が亡くなって、はや1年が過ぎた。

4月は少林寺の住職さんのご都合がつかなかったので、連休中の5月3日に一周忌を実施することになった。

前日は、ボクたち夫婦は勤務日なので、仕事が終わった後、田辺の自宅マンションを出発して丹波に向かったがゴールデンウィークで相当混雑していた。



翌朝が早いので、夫婦で柏原市内のホテルに泊まった。

初めて利用したホテルだったが、安くて比較的きれいで、朝食もついていて、結構良かった。

前日には、初美が少林寺に塔婆の受け取りに行って、小西さんと自宅と墓の掃除をしたり、仏壇の花を供えたりしてくれた。



10時から、住職さんや親族の方々がお揃いになり、い周期の法要を行っていただいた。

ボクは足が悪いので、小さな台を持ってきて使ってみたが、おかげでかなり楽だった。

ここで、参拝者に挨拶をしようと思っていたが、和尚さんから「挨拶は、会食の前に行ってもらえばいいですよ。」とのことだったので、止めた。

参拝者のために、お盆で焼香のセットを廻し、焼香が終わった後、墓に参った。



その後、芦田正さんにお世話をしてもらったレストラン「やすら樹」でお斎(おとき)と呼ぶ会食をした。

この日は、とてもいい天気だったが、レストランの送迎バスからは、黄砂がすごく、山並みが霞んでいた。

会食は椅子席で、足の不自由な参列者が多いので、助かったし、地元の山菜などがたくさん出されてとてもうまかった。




しかし、クルマで帰宅する人が多いので、酒を飲むことができず、結構、時間を持て余し気味だった。

そこへ、山内さんが、「では、手品でもやってみようか。」と言って、紐をネタにした手品をいくつか披露してもらったが、みんなに楽しんでもらえて良かった。

2011年3月27日日曜日

実家の活用

実家には、現在誰も住んでいない状態が続くので、この先どうするかを兄弟で考えることにした。
兄弟の誰かが実家に住むというのが理想だが、なかなか難しい。

自分は経営していた大阪の会社を解散して、丹波の自宅を拠点にして仕事をしてみようと「技術士事務所」をこちらに移し、大きな荷物を運んで準備を進めた。

ところが、障害者なので農業は無理としても、何らかのコンピュータ関係の仕事がないかと探したのだ。
丹波市在住の友達とも相談し、丹波市の職員の方とも話し合ったが、結局、兵庫県立大と害獣対策事業を獲得したに留まった。

いろんな人に相談したが、丹波には、ボクのできそうな仕事はなかなか難しいようだ。

妹も、嫁ぎ先の親類の人が農業をしたいと言っているので、ひょっとしたら移り住んでくれるかもと期待したが、ダメだったそうだ。

弟はかつて丹波の実家で農業に携わっており、彼の妻もしばらく住んでいたこともあるので、最も期待できると思ったのだが、直接弟に聴いてみると「実際住んでみたら、ずっと住み続けるのは我慢できなかった。今後も、その気はない。」との冷たい返事。

と言って無人で放っておくと、家は傷みが早いので何とかしないといかん。

丹波市のためにこの家が有効活用できれば、などの話をしていたら、そのうち、丹波市が就農希望者を募集しているとの話を聴いた。

もし、そういう人があれば、我が家もどうすれば良いか検討しているので、一度お会いしてお話できればと言っておいた。



そうすると、3月に「1人、神戸の方で、丹波への就農希望者がおられますが。。。」との連絡があった。

そこで、ボクが兵庫県立大学で行われた会議に出席するついでに、まずはお会いしようと神戸でお会いした。

若い夫婦でお会いすることができたが、明るくていい人だった。

最初に、「私のほうは、まだ、兄弟の了解も親類への説明もしていませんので、すぐにというのは難しいのですが、」と切り出した。

しかし、農業に携わりたいと言う気持ちは、都会で事業に失敗したなどという後ろ向きの話でなく、神戸で営業しているラーメン屋は繁盛していてテレビ雑誌で紹介してもらっているが、「こんなことで稼ぐのでなく、自分で作った本物の野菜を食べてもらうレストランを開きたい。」との思いで、丹波で土地を探しているとのこと。賃貸期間もその準備をする1年間のみとのことだったので、そのような条件であれば、取り敢えず兄弟に確認してみることにした。

白浜の自宅に帰って妻に話すと「それは、いい話じゃない。」と喜んだが、兄弟からは「貸さないで。」とのメールを受けたので、この話は遭えなく頓挫してしまった。



村の区長さんや農会長さんにも、その経緯を説明しておこうと、丹波を訪れたのだが、ちょうど村の総会がある日で、公民館に村の主だった方が集まってもらっていた。

区長さんなんかは、うわさで凡そのことは聞いているとのことで、あまり経過などを詳しく説明する必要はなかった。

さすがに田舎のコミュニティはしっかりしている。と言うべきか、他に話題がないので、手ごろな話の種になっていたのか、その辺りは良くわからん。

しかし、区長さんから「一周忌も済んでいないのに、ちょっと早すぎるんじゃないか?」との意見をもらった。

確かに早過ぎたんだけど、ビジネス感覚で考えると、行政が関係しておまけに田舎でこんなに早く話が進むとは思っていなかった。

今回、関係した人が都会の方だったからだろうと思う。

この件で、田舎と都会のビジネス感覚の違いを肌で感じたが、この地で、ボクがやりたい情報関係のビジネスが受け入れられないのも当然であるという感覚を感じたことだった。

都会の合理主義が良い、田舎のコミュニティが良いということではなくて、両者の感覚の違いが理解できないとダメだな。

2011年1月2日日曜日

母のいないお正月

別のブログでも書いたが、散々な目に遭ったものの何とか帰省できたが、実家はエアコンも無く寒いだろうから血圧に良くないとのことで、柏原のビジネスホテルに泊まった。

自宅に帰って、母の墓前にお参りしたが、母のいなくなった今年の正月は一段と寒かった。



早朝、7:30より檀家である少林寺の年賀のご挨拶に出かけた。

昨日の雪で、寺の入り口では雪かきでなく雪掃きをしておられたが、スタッドタイヤを装着したレンタカーのおかげで安心して駐車場に停める事ができた。




寺の年賀式は、般若心経の読経、檀家総代の挨拶、ご住職の講和があり、約30分くらいで終わった。

その後、9:00から石才地区の年賀式が公民館前の広場で行われ、久しぶりにお会いした人たちにご挨拶をした。



年末に続いて、老人介護施設「おかのはな」に入居中のおやじを訪ねた。

周辺の景色は雪に覆われ、すごく懐かしい風景に思えた。

帰省に13時間もかかったので、早いうちに丹波を発って、田辺に向かったが、Uターンは何事も無く走行することができ、レンタカーを返却して、預けていた自分の車で帰った。

この日は、良く晴れて、快適なドライブとなって安心した。

2010年12月29日水曜日

来年の稲作の相談

今年の稲作は、亡き母が準備した稲の苗などを利用して、弟が親戚の人たちのお手伝いを受けながら、米の納品までやり遂げてくれた。

ところが、来年は、弟が福岡に出店する店の責任者として赴任するそうなので、とても稲作は無理とのこととなった。

そこで、近所の稲作を専門に行っているY氏を訪ねて相談した。



おかげで、「我が家が希望するなら、来年の稲作を引き受けても良い。」との返事をもらったので、弟と確認し合って、依頼することにした。

とにかく、今、自分たち兄弟では、どうしようもないのが実情だが、全国にもこのような状況に陥っている家族が非常に多いのではないかと思う。

なにしろ、政府がこのくにの農業に対する将来構想をまったく持っていなくて、いつも行き当たりばったりの政策で、多くの農家が振り回されている。

挙句、我が家のように、にっちもさちもいかなくなるのだ。

2010年6月14日月曜日

忌明け法要

母の四十九日の忌明け法要を行ったんだけど、丹波の風習に馴染んでない兄弟3人にとってこの準備が大変。

村の親戚の人らに相談して、詳細なスケジュールや準備するものなどを聞いて、兄弟で手分けして作業をしたんだが、なぜ、そんなことをするの?という疑問が次々と湧いてきて、なかなか理解できない。

もともと仏教の教えからしてほとんど知識がないのだから、やっていることが理解できないのは仕方がないし、檀家のお坊さんが、忙しい我ら兄弟が忙しくて全然実家に帰ることができないので、できるだけ手間を省いて、忌明け法要にまとめて実施してもらうなど、いっぱい気を使ってもらった。



それにしても、日本人って、こんなに宗教に無知でいいのかな、と思うと共に、本質の理解をせずに、ただ、決められたしきたりを守っているだけでどんな意味があるんだろうと思う。

ボクらは前日に帰宅し、銀行口座の相続手続きとともに、寺に預けておいた塔婆を受け取り、法要の準備をして当日を迎えた。

おおよそ、以下のような手順で法要が行われた。

朝から親戚などからお参りしていただく人々が集まる。

10:00 和尚さんが来られて自宅で読経していただく。

11:00 納骨のために墓地に行く。



11:30 参列者は、車に分譲してお寺に行き、読経

12:00 自宅で食事

2010年5月11日火曜日

母の死

深夜にメールが来たので、妻がベッドの上でケータイで見ると「母が亡くなりました。」と妹からのメール。

びっくりしたが、深夜にクルマで丹波まで走るのは、今のボクにとって危ないので、早朝に丹波に向けて出発した。

途中、高速の追い越し車線で突然タイヤがパンクしたが、自動車保険に電話をしたら30分ほどで救援の人が駆けつけてくれて、取り敢えず応急処置をしてもらった。

たどりついた丹波の自宅は、つつじの花が満開に咲いていた。

また、いつも母が仕事に精を出していた家の前の畑には、きれいに整備された野菜のそばで、芥子の花が咲き誇っていた。









そっと家の中にはいると、母の遺体が白い布団に寝かされていた。

気候の良い時期のおかげで、ガラス戸を開いた縁側から、爽やかな風が流れ込んで来る。

おだやかな顔をして、安らかな眠りについているようで安心した。



翌日、柏原の「こもれび」という総裁センターで葬儀を行った。

長男のボクが喪主となり、葬儀の後で参加者にご挨拶をしたが、それが結構ウケていた。

主な内容はこんなもの。

先週、父の入院手続きに母と同行して病院に行き、入院する父を励ましてきたばかりなのに、励ました側が先に亡くなるとは思ってもいなかった。

前夜、兄弟3人で食事をしながら、母の死因を究明しようと相談した。

先日、農業の虫と呼ばれる働き者の母から電話があった。「草刈機が動かなくなったので、何とかして欲しい。」とのことだ。

「じゃ、オークションで中古品を落札しておくよ。」ということで、落札した草刈機を自宅に送付しておいた。

弟が実家に帰ったとき、早速、起動しようとしたが、なかなかエンジンがかからない。

一生懸命エンジンのワイヤーをひっぱている弟の様子を心配そうに覗き込んでいた母は、突然かかったエンジンの白い煙に包まれてしまったのだ。

このときの白煙を吸い込んだのが直接の死因だったと思う。



この思い出の草刈機を母の棺に入れてやろうと思ったが、焼却炉で燃えにくいだろうと思ったのと、働き者の母が、天国へ行く途中で草刈をやらねば、と思われたら困るので止めた。

もう仕事を気にせず、まっすぐ天国に行って欲しい。

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昨夜は、妹の電話に「食事がのどを通らないし、少ししんどい。」と連絡があった。

そこで、「夜には、弟が帰って来るので、ちょっと待ってて。」と答えたのだが、弟が自宅に着いたら、入り口に腰をかけたまま息絶えていたそうだ。

その連絡を聞いた妹がメールを送ってくれたのだ。

葬儀には、久しぶりに顔を合わせる親類縁者の方がたくさん来られた。



焼却場に行く途中の山道には、たくさんの藤の花が咲いていた。

丹波の厳しい寒さに耐えて、ようやく心地よい季節になったというのに、なんで死んじゃったんだろうね。

自宅に帰って、親類の人たちとともに、母の遺品を荼毘に付した。